現在も多くの愛読者を持つ夏目漱石は「人生の真相の半ばは夢の中に隠されている」と述べ、作品の中で夢を活用した。「夢十夜」は一連の夢で語られる魂の喪失と回復の物語であるが、例えば第8夜の黒繻子の女や第10夜の謎の女の正体は何か、受け継がれてゆくパナマ帽は何を意味するのか、など多くの謎がある。「三四郎」の広田先生の夢は何を意味するのか。「こころ」で二人の女性だけが名前を持つのはなぜか。本書はユング心理学の視点から、日記や書簡を含めた漱石の作品全体に張り巡らされた象徴とイメージの連環を解明し、読者とともにこれらの謎を読み解く試みである。その試みを通じて、漱石の生涯をかけた闘いの軌跡が明らかになる。それは無意識と対決し、傷ついた瀕死の魂を救う苦闘の物語である。彼は過酷な運命を文学によって克服したのであった。自伝的作品「硝子戸の中」「道草」、随筆「点頭録」等は彼が最後に到達した境地を示している。