人道主義は、キリスト教系やユーゴー、トルストイその他の思想家や文学者たちの受容と大正デモクラシーとも結びついて広範に広まった。白樺派は人道主義的であることを一大特徴とし、かつトルストイから大きな影響を受けている。本多秋五は、人道主義という言葉はもともとトルストイの教説の輸入と結びつき、とりわけ白樺派の人道主義はトルストイと繋がりが深かったと指摘している。白樺派に人道主義という名称をつけたのは批評家木曾毅であった。
トルストイは明治20年代からよく知られ、30年代後半には『復活』や『アンナ・カレーニナ』等の主要文学著作が翻訳紹介され、他方では『懺悔』『わが信仰はいずこにありや』等の主要宗教著作が翻訳紹介されて、思想家宗教家としてその名声がきわめて高まった。そして、日露戦争最中の非戦論文「反省せよ」(邦訳「トルストイ翁の日露戦争論」)によって、その声望が一挙に高まり、トルストイ人気が非常に上昇することになった。40年代、トルストイ人気はさらに高まり、43年の死によって高揚が頂点に達した時、雑誌『白樺』は創刊された。
白樺派の人々はトルストイばかりではなく、世界中の多くの文学者たちと交渉をもち、また、芸術の分野にまで活動範囲はひろがっているが、その基底にトルストイ文学と思想、その人道主義があったと見ることができる。