1600年、イギリス人、ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)が、波濤を越えて日本に上陸した。アダムスは徳川家康のブレーンとなる。家康はアダムスがもたらした大砲により、関ヶ原の戦いに勝利し天下を取る。 徳川家康はアダムスに横須賀の逸見を領地として与える。だが、按針は家康の死後、平戸で没する。 横須賀の按針塚の按針の墓発見は、1872(明治5)年のことである。1902(明治35)年、日英同盟が結ばれると、三浦按針の墓がにわかにクローズアップされる。按針の墓があることを示すため、塚山公園が国家的プロジェクトで造られる。だが現在、この過程を知る人はほとんどいない。それは横須賀市の広報に誤りがあるからである。本書はこの誤りを正すとともに、なぜ誤った報道がなされたかを明かす。 按針祭は塚山公園の完成後、毎年行われていたが、第二次世界大戦の勃発により中止となる。 戦後の復活第1回按針祭は、占領軍の横須賀米海軍基地司令官デッカー大佐の司令により再開された。 戦後のこの時代の横須賀は、パンパンで溢れ、米兵に性病が蔓延した。デッカー大佐は、彼の夫人の協力で、日本の婦人会を通し、コンドームを配った。歴代基地司令官は、性病の女性が出たバー・キャバレーをオフリミット(立入禁止)にした。米兵達が目指した店は、A級標識のついた店であったが、ここにも、性病の女性はいた。 横須賀の戦後まもなくの経済は、パンパンのいるハウスの税収で成り立っていた。バー・キャバレー、スーベニアショップにも客寄せのため、パンパンが必要であった。 米海軍基地は、たびたび日本の警察(市警)とともに、パンパン狩り込みを行う。1951(昭和26)年、横須賀市の人口が26万人の時、狩り込みで逮捕されたパンパン(夜の女)は8500人以上いた。 だがパンパン達は、屈することなく、出没した。この状態は、1958(昭和33)年4月の「売春防止法完全実施」まで続いていく。米海軍横須賀基地は、バー・キャバレーにA級標識の替わりに、性病防止のAサインを発行した。 1952(昭和27)年、横須賀商工会議所が、米兵を呼び込み、ドルを吸い上げるため、パンパンを賛美した、「横須賀音頭 タマラン節」を作るが、これが朝日新聞他で批判され、全国的に知られる。この歌の歌詞により、横須賀がパンパンの街、世界の赤線と有名になった。商工会議所は歌詞を替えレコードを完成させる。 だが、コロムビアレコードは、話題となったこの元歌を販売しようと、レコードをプレスする。だが、猛烈な反対運動が起こり、コロムビアは発売することができなくなった。このレコードは、国立国会図書館の歴史的音源に保存され、今も聴くことができる。 美空ひばりの初期代表作「リンゴ追分」は、「タマラン節」の翌5月にプレスされている。 ひばりは、戦後、横浜でデビューしたと語られる。だが、戦中、父親が司厨兵として横須賀海軍基地に徴用され、ひばりはそこを慰問し、歌っていた。本書は、塚山公園と按針祭とパンパンの知られざる真実を、当時の新聞他をもって、明らかにするものである。