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武田三代年表帖 上

その時、甲・信・越・相・駿・遠・三らは信玄VS謙信の12年戦争、真田家三代の計略、家康の台頭

編:ユニプラン編集部

紙版

内容紹介

上巻は甲斐の信玄を中心に、謙信との12年戦争など信濃・越後・相模・駿河・遠江・三河の戦国武将たちのしのぎを削る攻防戦及びそれぞれの動きを重点記述。
下巻では信玄の死後、武田勝頼の家督相続からの苦難な歩みと、武田忠臣であった真田一族が、秀吉、家康ら戦国大名の狭間で、どのようにのぞみ、活躍をしたのか。
戦国時代に覇権を競った武将たちの複雑な動きが全体の流れとして把握できます。


本年表帖は、戦国時代の武田信玄の活躍時代から西上途次の無念の死までの信玄中心の年表で、その頃、家臣として活躍した真田家三代も詳述しました。
冒頭、「武田信玄、戦いの生涯」として、史実といわれる事柄を掲載しました。
 年表内の項目は、日本の中部から関東の一部を中心に、甲斐の信玄、越後の上杉謙信、信濃の国衆や真田幸隆・昌幸父子、相模の北条氏康・氏政父子、駿河・遠江の今川義元・氏真父子、三河の松平広忠・徳川家康父子ら戦国大名たちに関係する出来事を収録いたしました。
また、大きな勢力をもち、入京と覇権を競った武田信玄と上杉謙信についても、大いに取り上げております。
 武田家三代、真田家三代の、その日、その時に何が起きていたのか? その周辺諸国、戦国大名たちは、何をしていたのか?
 

目次

西暦▼和暦 月日 出来事 掲載頁
1532▼天文1 9月- 「武田氏第18代・武田信虎、事実上の甲斐統一を達成する」。 0001
1533▼天文2 ― 武田太郎(のちの信玄)(1521~1573)、扇谷上杉朝興娘を、正室として娶る。 0004
1534▼天文3 5月12日 「織田信長、生まれる」。吉法師(信長)(1534~1582)、生まれるという。 0005
11月- 武田太郎(のちの信玄)妻・扇谷上杉氏、懐胎して没する。 0007
1535▼天文4 6月5日 甲斐の守護大名・武田信虎、今川氏の駿河に侵攻する。 0008
9月17日 武田信虎(1494~1574)と諏訪碧雲斎(頼満)(1473~1540)、和睦が成立する。 0018
12月3日 家督相続から10余年で三河をほぼ統一した三河安祥城および岡崎城主・松平清康(家康の祖父)(1511~1535)、再び、1万余りの大軍で尾張に侵攻開始。 0022
12月5日 松平清康、清洲城の支城・守山城攻め陣中で、家臣阿部弥七郎正豊に村正刀で暗殺される。主を失った三河勢は岡崎に撤退。俗に言う「守山崩れ」である。享年25。 0024
12月28日 息子の罪の償いのため千松丸(仙千代)を護る阿部定吉(1505~1549)は、松平仙千代広忠(家康の父)12歳(1526~1549)を伴い、岡崎城を脱出。 0027
1536▼天文5 1月17日 武田信虎嫡男・太郎(後の晴信・信玄)(16歳)、従五位下左京大夫に任ぜられる。 0029
3月- この月、武田信虎嫡男・太郎、元服し将軍足利義晴の偏諱をうけて晴信(後の信玄)と名乗る。 0032
3月17日 駿河国の今川氏当主氏輝(24歳)(1513~1536)、弟彦五郎(?~1536)と共に、突然、没。死亡月日は異説あり。 0034
5月25日 「花倉の乱―5月25日~6月10日」。▼駿河今川家中で御家騒動が起きる。太原雪斎(1496~1555)ら重臣たちは、弟栴岳承芳(氏親三男)(18歳)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、「義元」と名乗らせ後継にしようとする。外祖父福島上総介は、義元の異母兄弟・遍照院住職良真(玄広恵探)を擁立し挙兵、内戦線状態となる。 0038
6月14日 「花倉の乱」、終結。▼玄広恵探(1517~1536)、花倉城を攻められ、瀬戸谷の普門寺で自刃。この乱で、相模の北条氏の支援も得て、今川義元(1519~1560)が勝利し、家督を継ぐ。 0044
7月- この月、武田信虎、今川義元の斡旋により、公家三条公頼の次女(三条夫人)(1521?~1570)を嫡男晴信(信玄)(1521~1573)の正妻に迎える。 0046
7月27日 「天文法華の乱」。▼比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、四条口から京へ乱入、各所に放火。翌日まで持った本國寺を含め洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上する。 0047
8月3日 越後守護代長尾為景(1489?~1543)、家督を長男晴景(1509~1553)に譲る。晴景、守護代となり、守護・上杉定実(1478?~1550)と争う。▼■二男虎千代(景虎、上杉謙信)(7歳)(1530~1578)は、林泉寺に入り、天室光育(1470~1563)に学ぶ。 0048
11月- 武田晴信(信玄)、信濃佐久郡の戦いに初陣。 0058
1537▼天文6 2月6日 木下藤吉郎(後の秀吉)(1537~1598)、尾張国愛智郡中村に誕生。 0062
2月10日 「甲駿同盟成立」。甲斐武田信虎は、長女・定恵院(信玄の姉)19歳(1519~1550)を、この日、駿河今川義元19歳に嫁がせ今川・武田の同盟成立。 0063
2月20日 「第一次河東一乱―天文6年(1537)2月20日~天文8年(1539)7月8日」、はじまる。武田・今川の同盟に反発した相模の北条氏綱は出陣。駿河に出兵して興津を焼く。 0064
6月25日 松平内膳正信定と和議した、元服前の松平広忠(家康の父)(1526~1549)、駿府での人質生活から解放され三河岡崎城に帰る。 0085
7月20日 武蔵国松山城(埼玉県比企郡吉見町)、落城。▼■武蔵国における北条氏の優位性は決定的となる。 0090
12月9日 松平広忠(家康の父)12歳、元服、東条吉良持広(清康の妹婿)(?~1539)、烏帽子親。 0094
1538▼天文7 5月- 北条氏綱(1487~1541)と武田信虎(1494~1574)が、和睦する。 0101
― この年、武田晴信(信玄)の嫡男太郎(のちの義信)(1538~1567)、生まれる。 0108
1539▼天文8 7月8日 「第一次河東一乱―天文6年(1537)2月20日~天文8年(1539)7月8日」終結。「蒲原城の戦い」。 0109
1540▼天文9 6月6日 「第一次安城合戦」。信長父・織田信秀(古渡城主)(1510?~1551)、3千の兵を率いて三河に侵攻、弱体化した松平氏本拠・安祥城を攻め落とす。 0117
11月29日 「武田氏と諏訪氏、同盟」。この日、同盟関係の証として、武田信虎の三女禰々(1528~1543)が諏訪頼重(1516~1542)に嫁ぐ。 0119
1541▼天文10 5月23日 「海野平の戦い(神川合戦)、海野氏敗北―小県郡の大半は、信濃国北部の豪族・村上義清の領土となる」。 0126
6月14日 「武田信虎追放クーデター」。武田晴信(信玄)、板垣信方(1489?~1548)ら重臣と謀る。武田信虎、信濃から凱旋すると、娘婿の今川義元の元を訪ねるため、この日、甲府を出発。晴信、直ちに甲斐と駿河の交通を閉じ、その帰国を阻む。 0129
6月28日 武田晴信(信玄)、家督相続の儀式を執行し、甲斐守護職を嗣ぎ大膳大夫を称す。 0132
7月19日 北条氏第2代当主・北条氏綱(1487~1541)病没。享年55。3代目に嫡男・氏康(1515~1571)が家督を継ぐ。 0139
― 松平広忠(徳川家康の父)14歳(1526~1549)、刈屋城主水野忠政娘・於大の方(のちの伝通院)(1528~1602)を娶る。 0141
1542▼天文11 6月29日 「武田氏の諏訪侵攻」。武田晴信、諏訪郡に入る。 0150
7月4日 「信玄の諏訪領支配始まる」。 0154
7月21日 「諏訪惣領家滅亡」。甲斐守護武田晴信(信玄)、諏訪頼重(1516~1542)、弟頼高(1528~1542)を東光寺で自害させる。 0159
8月10日 「第一次小豆坂の戦い」。織田軍が今川軍に勝利という。 0160
10月7日 「晴信、諏訪を手に入れる」。諏訪西方衆が、武田に降伏する。 0168
12月15日 武田晴信(信玄)(1521~1573)、信州爾津神平の息女(実は諏訪頼重の娘、諏訪御寮人)(1530?~1555)を側室とするとされる。異説あり。 0172
1542▼天文11 12月26日 「家康、生まれる」。竹千代(徳川家康)(1543~1616)、岡崎城主松平広忠と正室於大(後の伝通院)の間に、嫡男として生まれる。 0174
1543▼天文12 1月- 松平宗家7代清康没後、広忠伯父の松平蔵人信孝(?~1548)は、岩津松平親長と信孝の弟康孝(?~1542)の旧領地を横領し、松平宗家を脅かす存在となる。信孝が駿河へ出向いている隙に、広忠家臣等は信孝の所領を奪い取った。▼駿河から帰った信孝は、松平氏を離反し、尾張織田氏を頼った。 0177
8月15日 虎千代(上杉謙信)(1530~1578)、兄晴景の命により、林泉寺より呼び戻され、元服して「長尾景虎」と名乗り、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで翌年、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。 0187
8月27日 種子島に鉄砲伝来。 0188
9月9日 武田晴信(信玄)、長窪城の大井貞隆討伐のため甲府を出陣。▼■諏訪領を確保した武田氏はさらに信濃侵攻を本格化させる。 0190
1544▼天文13 9月- 於大の方(家康母、後の伝通院)(17歳)は、兄の刈屋城主・水野信元がこの月、織田方と誼を通じたため、今川義元の援助で国を保ってきた岡崎城主松平広忠(1526~1549)より、離別させられて刈屋城へ帰る。▼■以後、竹千代(家康)(1543~1616)は、祖父松平清康の妹、於久の方(?~1561)に養育される。家康を6歳で人質に出されるまでの3年間養育したという。 0200
12月- 信濃侵攻を企図した武田氏は、両上杉氏を当面の敵としていた相模の北条氏康と和睦を結び、ここに甲相同盟(第一次)が成立。 0215
1545▼天文14 5月22日 甲相駿三者同盟により北条・今川の援兵、武田氏の伊那箕輪攻城に参陣。駿河松川から今川軍の援軍3百が、武田軍と合流。 0229
6月10日 「伊那郡の北半分が武田氏の支配下に入る」。箕輪城(福与城)が、ついに陥ち、伊那の藤沢頼親は、武田晴信(信玄)の講和を受け入れる。 0233
7月24日 「第二次河東一乱―天文14年(1545)7月24日~10月29日」、はじまる。▼駿河の和(駿相同盟)破れる。今川義元、軍勢を率いて善得寺に布陣する。 0239
8月11日 駿河の今川義元と甲斐の武田晴信(信玄)が、会見という。▼■甲駿同盟が成立、祝宴が催される。 0241
9月20日 「第二次安城合戦―清田畷の戦い」。▼松平広忠(家康父)、安祥城(松平氏本拠)奪回を謀り、三河清田畷で織田信秀と戦うが、織田勢の挟撃に遭い敗走。▼■この頃、松平氏の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。矢作川以北の西三河は、織田信秀に帰し、勢力圏は東三河に及ぶ。 0252
10月11日 駒井高白斎・板垣信方・向山又七郎が連判状を作成し、北条氏康家臣・桑原九郎右衛門盛正に届ける。▼■今川・北条双方との同盟関係にある武田氏は両者の調停に乗り出した。 0256
10月29日 「第二次河東一乱―天文14年(1545)7月24日~10月29日」、終結。▼今川・北条の和睦が成立する。武田晴信(信玄)が仲介役として双方の間に割って入り、停戦が成立。今川家重臣・太原雪斎(1496~1555)を交えて誓詞を交換。 0263
― この年、松平広忠(家康父)(1526~1549)、田原城の戸田康光(?~1547)の娘・真喜姫(田原御前)(?~1571)と再婚。 0268
1546▼天文15 ― この年、四郎(後の武田勝頼)(1546~1582)、誕生。▼父は武田晴信(信玄)(1521~1573)。母は信玄側室の諏訪御料人(諏訪頼重の娘)(1530?〜1555)。勝頼正室は、織田信長の養女・遠山夫人。 0269
1546▼天文15 2月28日 長尾景虎(謙信)(1530~1578)、越後守護上杉定実の命令により黒滝城(新潟県西蒲原郡弥彦村)に出陣、再び黒滝城に籠り反乱を起こした黒田秀忠以下一族をことごとく切腹させる。これを契機に景虎を越後守護代にしようとする運動が起こる。 0270
4月20日 「河越夜戦―扇谷上杉氏、滅亡」。▼北条軍8千が、河越城(埼玉県川越市)を包囲し、城を取り巻く関東管領山内上杉憲政(1523~1579)・扇谷上杉朝定(1525~1546)・古河公方足利晴氏(1508~1560)の連合軍を破る。扇谷上杉朝定、戦死。年月日、内容とも異説多い。 0274
5月3日 「武田氏、佐久郡侵攻を開始」。武田晴信(信玄)、佐久郡内山城攻めに、甲府出陣。海ノ口まで進む。 0275
10月16日 これより先、今川義元、太原崇孚雪斎(1496~1555)の指揮下で三河侵攻を開始する。この日、牧野保成、所領の不入などを今川氏に求める 0293
12月- 村上義清(1501~1573)、須田満親(1526~1598)を大将にして佐久郡の海尻城(長野県南佐久郡南牧村)を攻め落とす。しかし、武田方・真田幸隆(幸綱)(1513~1574)が海尻城を再度奪回する。 0297
1547▼天文16 ― この年、真田幸隆三男・昌幸(幸村父)(1547~1611)、生まれる。母は河原隆正(1509~1578)の妹。 0298
6月1日 武田晴信(信玄)、その家法「甲州法度之次第」26ヶ条を定め、甲斐・信濃に公布する。(検使・棟別銭・欠落逃散禁止・人返し等々の規定を含む)。 0307
7月- 「第三次安城合戦」。▼松平広忠(家康の父)(1526~1549)、この月、広忠伯父の松平蔵人信孝(?~1548)と矢作川の河原で戦い敗北する。 0310
閏7月24日 「小田井原の戦い」、はじまる。▼武田勢、佐久で唯一抵抗する志賀城攻めを開始。城主・笠原新三郎清繁は、上野国平井城に拠っていた関東管領上杉憲政(1523~1579)に救援を要請し、西上野菅原城城主・高田憲頼の援軍を得て、武田氏に対して抵抗、包囲は長引く。▼■上杉憲政は権威回復のため、箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主の長野業政らの諫言に応じず出兵した。 0316
8月2日 「6歳の竹千代(家康)を今川家の人質として駿河に送る」。▼松平広忠は今川氏に援護・援軍を依頼し、実子松平竹千代(家康)(1543~1616)を人質としてさしだそうとした。舟で西郡(蒲郡)から大津(豊橋市老津)に渡り、陸路駿府に向かう予定のところ、田原城の戸田康光(宗光)・尭光父子が舟で行く方が安全と勧め、竹千代一行を攻撃して奪い織田信秀に送る。 0319
8月6日 「小田井原の戦い」武田軍、勝利。小田井原で、関東管領上杉軍を撃破。▼■関東諸将は上杉憲政を見限って続々と北条に投降・帰参することとなる。 0320
8月11日 「晴信(信玄)、佐久郡の平定を完了」。 0322
9月5日 「田原戸田氏、滅亡」。▼今川義元・松平広忠(家康の父)、戸田康光(宗光)(?~1547)の三河国田原城を攻撃し落城させる。▼■これにより今川義元は、三河全域に勢力を有することとなる。 0329
10月- 「信長、初陣」。▼この月、織田信長(14歳)(1534~1582)、初陣。三河の吉良大浜城に進出の今川勢を攻撃。 0333
1548▼天文17 1月8日 村上義清(1501~1573)、佐久郡へ出陣。佐久郡は村上義清の勢力圏内でもあり、ここに武田・村上両者は遂に直接衝突するに及ぶこととなる。 0337
1548▼天文17 2月14日 「上田原の戦い―信玄は武田家の当主となって初めて敗戦の苦渋を味わう」。▼晴信(信玄)、上田原で村上義清と戦い敗れる。 0343
3月19日 「第二次小豆坂の戦い」。小豆坂(愛知県岡崎市)にて今川軍が織田軍に勝利。▼■今川義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上、三河から駆逐した。 0351
7月19日 「塩尻峠の戦い」。甲斐守護・武田晴信(信玄)、信濃国守護・小笠原長時(1514~1583)を急襲し大勝する。 0369
12月30日 長尾景虎(上杉謙信)(1530~1578)、家督を継ぐ。▼越後守護・上杉定実(1478?~1550)の調停のもと、長尾晴景(謙信の兄)(1509~1553)は、景虎(謙信)を養子とした上で家督を譲って隠退する。景虎は、栃尾城(新潟県長岡市栃尾町)より長尾氏の本拠である春日山城(新潟県上越市中屋敷字春日山)に入り、19歳で家督を相続し、越後守護代となる。 0386
1549▼天文18 3月10日 「松平広忠(家康父)、没」。岡崎松平家当主広忠(家康父)(1526~1549)、浅井某又は蜂屋某に刺殺される。広忠の死後は今川勢が岡崎城に入り、主君を失った松平家中は今川氏の指揮下に入る。 0392
3月18日 「第四次安城合戦―3月18日〜11月8日」、はじまる。▼三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れた、今川義元・雪斎和尚(太原祟孚)の軍勢が、岡崎松平勢と共に、織田方山崎城攻略、安祥城に迫る。 0393
7月3日 「キリスト教伝来」。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル、鹿児島湾に投錨。 0402
11月8日 「第四次安城合戦ー3月18日〜11月8日」、終結。▼織田方の三河安祥城が今川軍に攻められ、織田信秀庶子信広(?~1574)は、捕虜となる。織田信秀は西三河の拠点を失う。 0431
11月10日 今川・織田人質交換。尾張笠寺で、織田信広・竹千代(8歳、後の徳川家康)人質交換。 0433
11月27日 今川義元は、竹千代の成人まで松平家の宗主権を代行することを宣言。▼松平竹千代(後の家康)(1543~1616)、この日、駿府に赴く。8歳から19歳になるまでの12年間、駿府で過ごすこととなる。 0436
1550▼天文19 2月26日 越後守護・上杉定実(1478?~1550)、病没。▼定実死後は跡継ぎがない越後守護家は断絶することとなり、将軍足利義藤(義輝)(1536~1565)の命令で景虎(上杉謙信)(1530~1578)が越後守護を代行した。 0446
5月25日 武田晴信(信玄)、信州村井に、信濃守護小笠原長時を破る。長時は平瀬城(松本市島内)に退き、村上義清を頼る。 0452
7月15日 「信玄、信濃中南部の大半を制圧」。▼武田晴信(信玄)、筑摩郡村井城から府中に攻め入り、この日、小笠原長時軍を「イヌイの城」(埴原城とも推定されている)に破り、勝鬨をあげて村井城に戻る。 0463
9月3日 「武田軍の砥石城攻め」、はじまる。 0482
10月1日 「戸石崩れ」。武田軍、苦戦の戸石城(長野県上田市上野)から午前6時退却を始める。村上勢の猛追を受ける。 0494
1551▼天文20 2月12日 武田晴信(信玄)(1521~1573)、除髪する。 0518
3月3日 信長父・織田信秀(1510?~1551)、没。万松寺の過去帳では、信秀の死は天文21年(1552)3月9日となっている。異説では、天文18年(1549)もある。 0522
1551▼天文20 3月- この月、織田信秀の死を受けて、嫡子信長(1534~1582)が弾正忠家の家督を継ぐ。 0525
5月26日 武田の将・真田幸隆(幸綱)(信繁の祖父)(1513~1574)、計策をめぐらし村上方城主山田国政の小県郡戸石城(長野県上田市上野)をわずか1日で攻略、本拠地真田を奪還する。信綱(幸隆の長男)(1537~1575)の初陣ともいう。 0531
8月1日 「謙信、越後統一」。▼前年12月謀反を起こした長尾政景(1526~1564)、景虎(謙信)(1530~1578)に誓詞を送り降伏。一族であること、義兄であること、老臣達の助命嘆願もあり、これを許して政景を臣下とする。政景は、景虎の姉・仙桃院(1524/1528~1609)を妻とする。長尾景虎(謙信)、これによりほぼ越後を掌握する。 0544
1552▼天文21 1月10日 関東管領上杉憲政(1523~1579)が北条氏康(1515~1571)に敗れ、長尾景虎(謙信)(1530~1578)を頼って上野の平井城から逃げてきた。景虎、憲政の為の館として御館を築造する。 0563
5月26日 越後守護代長尾景虎(上杉謙信)、後奈良天皇より従五位下弾上少弼の位階を賜わる。 0581
8月12日 「小笠原旧領の安曇・筑摩両郡、ほぼ武田支配下に入る」。▼武田晴信(信玄)、3千人の兵で、5百兵で守る安曇郡小岩嶽城を攻め落とす。 0591
12月1日 甲府躑躅ヶ崎館で能会・酒宴・婚儀が行われる。▼今川義元娘・嶺松院(?~1612)、甲駿同盟の一環として、武田晴信(信玄)嫡男・太郎(義信)(1538~1567)と結婚。 0600
1553▼天文22 1月15日 武田(穴山)彦太郎(信君)(梅雪)(1541~1582)、初の躑躅ヶ崎館出仕。武田宗家への人質である。出家後の梅雪斎不白である。 0604
1月20日 穴山信君(梅雪)に、北条氏康の書状と紬十反が贈られる。▼晴信(信玄)(1521~1573)と北条氏康(1515~1571)が相甲同盟の誓書を交換。 0606
4月9日 「葛尾城、自落」。武田晴信(信玄)、村上義清を埴科郡葛尾城に攻撃。この日、村上氏の本拠である同城自落し、義清は小県郡に撤退。続いて義清、越後に敗走し、長尾景虎(謙信)に救援を求める。▼■ここから長い川中島の戦いが始まる。 0623
4月22日 「第一次川中島戦のはじまり~八幡の戦い」。長尾景虎(謙信)、北信濃の国人衆の支援に出陣し、この日麻績から進軍した武田先鋒軍を更級郡八幡で破り、諸氏は旧領を回復する。村上義清は旧領を回復し、小県郡塩田城に拠る。 0631
7月23日 武田義信の「義」の字を送る将軍よりの使者が来る。信玄嫡子太郎、将軍足利義藤(義輝)(1536~1565)より偏諱を受けて、義信(1538~1567)と名乗る。 0644
8月5日 「武田氏による東信地方制圧が完了」。武田晴信(信玄)、村上氏の最後の拠点、小県郡塩田城を攻略、 0650
8月10日 「真田幸隆、上田小県への復帰果たす」。幸隆の三男・昌幸(幸村父)(1547~1611)、人質として甲府に在府。その引き換えに、武田晴信(信玄)は、この日、真田幸隆(1513~1574)に秋和(上田の近く)350貫の地を与える。 0653
9月1日 「第一次川中島の戦い~布施の戦い(更科八幡の戦い)」。▼晴信(信玄)の北信濃侵攻を脅威に感じた越後の長尾景虎(謙信)、村上義清救援のため信濃に出陣し、この日の布施の戦いで、武田軍を破る。 0659
9月20日 「第一次川中島の戦い」終結。長尾景虎(謙信)は一定の戦果を挙げたとして、越後国へ引き揚げる。景虎上洛の日が迫っていた。 0669
1553▼天文22 9月下旬 24歳にして万難を排して京都に上ることを決意した長尾景虎(謙信)(1530~1578)、この頃、従五位下弾正少弼叙任御礼のため、手兵2千を率いて初めて上洛する(1回目)。 0670
1554▼天文23 1月27日 この日と2月21日に、北条新九郎(氏政)と黄梅院(信玄の長女)との結婚の誓詞が、北条氏康(1515~1571)と武田信玄(1521~1573)との間で交わされる。 0687
2月- 「第三次河東一乱―天文23年(1554)2月~3月」、はじまる。▼北条氏が、今川氏の河東(富士川以東の駿河)地域に出兵。 0689
3月- 「第三次河東一乱―天文23年(1554)2月~3月」、終結。▼■しかし晴信(信玄)は、予てより三者同盟を策し、今川家臣・太原崇孚と組んで義元の娘(嶺松院)を信玄の子義信に、信玄の娘(黄梅院)を北条氏政に、氏康の娘(早川殿)を今川氏真に嫁すを約して和議成る。「善徳寺の会盟」(甲相駿三国同盟)と呼ばれる。この成立が、「北条・武田・今川」対「上杉・長尾」という構図である。 0695
7月17日 「甲相駿三国同盟」。北条氏康の娘・早川殿(?~1613)、今川義元の嫡子・今川氏真(1538~1615)に嫁す。 0702
8月15日 「信玄、伊那を平定」。この日、文永寺はじめ知久郷に放火する。次いで、吉岡城の下条信氏ら、晴信(信玄)に降る。 0708
12月- 「甲相駿三国同盟」。三者同盟により晴信(信玄)の長女黄梅院12歳(1543~1569)、北条氏政(1538~1590)に嫁す。 0715
1555▼天文24 3月15日 松平竹千代(後の家康)(1543~1616)は、この日、今川氏の下、浅間神社で元服し、加冠の今川義元から偏諱を賜って「次郎三郎元信」と名乗る。 0726
7月19日 「第二次川中島の戦い~犀川の戦い」。 0736
8月- 「信玄、木曽へ侵攻」。和議を申し入れた、木曾氏は武田親族衆となる。 0740
1555▼弘治1 10月23日 戦乱などの災異のため「弘治」に改元。 0746
閏10月15日 「第二次川中島の戦い」、終結。▼駿河の今川義元の調停により、武田、長尾(上杉)両氏が誓紙・条目を交わして和議を結び、撤兵する。旭山城を破却、両軍とも川中島から撤退し、所領を旧領主に返上するという講和の条件である。 0751
11月27日 長尾喜平次(のちの上杉景勝)(1556~1623)、越後国に誕生。▼■上田長尾家当主・長尾政景(1526~1564)の次男、母は長尾景虎(上杉謙信)の実姉・仙桃院(1524/1528~1609)。 0754
11月- 「晴信(信玄)、南信濃平定を完成」。▼木曾義康(1514~1579)・義昌(1540~1595)父子、甲府に出仕する。 0755
1556▼弘治2 3月1日 武田晴信(信玄)、信濃伊那郡を攻略する。甲越和睦は、有名無実となる。 0757
3月23日 長尾景虎(上杉謙信)(1530~1578)、この日、家臣団に出家の意向を伝えたという。国内の紛争に耐え切れず隠居という。 0759
5月- 松平次郎三郎元信(後の家康)(1543~1616)は、この月、今川義元の許可を得て7年ぶりで岡崎に帰る。岡崎には今川氏の城代が鎮し、松平氏の家臣団は今川氏の先鋒として戦場に駆り出される受難の時代であった。 0762
6月28日 隠居・出家することを宣言した長尾景虎(上杉謙信)、高野山(一説に比叡山)に向かう。 0767
1556▼弘治2 8月17日 長尾景虎(上杉謙信)、大和国の葛城山山麓の葛上郡吐田郷村で、家臣が追いつき必死に懇願した結果、隠居を思い止まる。 0776
1557▼弘治3 1月15日 松平元信(のちの徳川家康)(1543~1616)、今川義元の命で今川家重臣・関口刑部大輔親永(義広)の娘「鶴姫(瀬名姫)」(今川義元の姪、後の築山御前)(1542?~1579)を娶る。▼■のち、松平元信(家康)は、祖父・松平清康の偏諱をもらって松平蔵人佐元康に改名する。 0785
2月5日 松平元康(家康)、墓参りと称して岡崎に帰国する。▼■本丸に今川方城代山田新右衛門景隆がおり、二丸に松平元康は入る。 0788
4月9日 「信玄、初めて上野に出兵」。 0802
4月18日 「謙信の第一次関東遠征」。長尾景虎(謙信は、この日、信越国境を越える。晴信(信玄)は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻める。 0809
7月23日 武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。信玄の信濃における検地の初見。 0822
8月26日 「第三次川中島の戦い~上野原の戦い」。武田晴信(信玄)対長尾景虎(上杉謙信)両軍は、水内郡上野原で衝突したが大規模な衝突には至らず。 0824
1558▼弘治4 1月16日 「晴信(信玄)、大館氏に、任官の労を謝し報酬を進呈する」。▼武田家臣今井昌良、将軍家側近大館晴光(?~1565)に、晴信(信玄)の信濃守護職、義信の准三管領任官の礼をし、銭2千疋を進呈する。 0835
2月5日 「寺部城の戦い―家康、初陣」。松平元康(後の徳川家康)17歳(1543~1616)、岡崎衆を指揮して初陣。今川義元の命で、織田方に寝返った鈴木日向守重辰の三河寺部城を攻め、初陣を飾る。 0836
2月20日 「晴信(信玄)、将軍家の御内書の応じて景虎(謙信)と和睦する」。▼これより先、将軍足利義輝(1536~1565)、越後守護長尾景虎(謙信)(1530~1578)及び甲斐及び信濃守護武田晴信(信玄)(1521~1573)に諭して、和睦を勧めた。この日、義輝、景虎の之に同意するを褒める。 0840
1558▼永禄1 2月28日 正親町天皇即位のため「永禄」に改元する。 0841
11月28日 これより先、将軍足利義輝、甲斐及び信濃守護武田晴信(信玄)の越後及び信濃を侵すを責め、晴信をして越後守護長尾景虎(謙信)と信濃・越後を分ちて和睦すべきを命ず、この日、晴信、之を承諾し、併せて非違無きことを弁疏(弁解)する。 0856
― この年、今川義元(1519~1560)、隠居。今川氏真(1538~1615)が家督継承。 0857
1559▼永禄2 2月2日 義輝上洛要請に応じた織田信長(1534~1582)、尾張国より5百の軍勢を率いて上洛(一回目)。 0858
2月- この月、武田晴信(信玄)、出家して、「徳栄軒信玄」と号する。5月ともいう。 0859
4月27日 長尾景虎(上杉謙信)、二回目の上洛をして足利将軍義輝に謁見、物を献じる。 0866
5月2日 長尾景虎(謙信)上洛に乗じて武田信玄は、佐久郡松原神社に北信濃攻略の成功を祈願。「信玄」の法名が初めて文書の上に現われる。 0868
10月26日 関東管領補佐に任ぜられた長尾景虎(上杉謙信)、京都から越後に帰国する。 0885
1559▼永禄2 12月23日 北条氏第3代目当主、北条氏康(1515~1571)、隠居。北条氏政(1538~1590)が家督継承、北条氏の第4代当主となる。氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続く。 0891
1560▼永禄3 2月2日 甲斐及び信濃守護武田信玄、諏訪上社造営(御柱立)にあたり、信濃一国に諸役を課する。 0897
4月28日 関東管領補佐長尾景虎(謙信)、甲斐及び信濃守護武田信玄が越中に外交の手を伸ばしことを、常陸の佐竹氏に報ずる。 0908
5月8日 朝廷、今川治部大輔義元(1519~1560)を三河守に、今川氏真23歳(1538~1615)を治部大輔に任ず。 0912
5月17日 松平元康(後の家康)(1543~1616)、尾張知多郡阿久比を訪ね、16年ぶりに母於大の方(1528~1602)と対面、家康19歳、於大の方33歳の時であった。19日とも。 0919
5月19日 松平元康(後の徳川家康)、大高城に於いて人馬を休める。 0930
5月19日 正午、今川義元、4万5千の軍勢を率いて桶狭間山(正しくは田楽狭間)にて人馬を休息させる。今川義元、午刻に織田側の鷲津砦・丸根砦を攻略して満足し「謡を三番」謡わせる。 0933
5月19日 「桶狭間の戦い―信長、今川義元を討つ」。▼午後2時過ぎ、三河・遠江・駿河三国の太守・今川義元(1519~1560)、田楽狭間に織田信長(1534~1582)の奇襲にあって討たれる。 0936
5月23日 松平元康(後の徳川家康)(1543~1616)、今川軍が退くのを待って、無人の岡崎城に帰る。今川方守将の山田景隆は既に逃亡していた。▼■天文18年(1549)に駿府に抑留されて以来、実に10年余の歳月が流れていた。皮肉なことに、今川軍が大敗するという思いもかけぬ事態によって宿願の岡崎城復帰を果たした。元康は父祖伝来の地、三河の回復と家臣団の再編成を進めていく。 0944
― 「海野一族、武田氏随従」。▼■信玄は上野計略の好機と見た。武田家臣・真田幸隆による西上野への侵攻を招くこととなる。 0955
8月26日 「謙信の第二次関東遠征」。▼長尾景虎(謙信)、春日山出陣。景虎、上杉憲政(1523~1579)の要請を受け関東に出陣。 0961
1561▼永禄4 2月- この頃、信長(1534~1582)、松平元康(後の徳川家康)(1543~1616)と和す。織田・松平両家の宿老、尾張の鳴海(愛知県名古屋市緑区)に会して国境を定める。▼▼■数十年続いてきた松平氏の外交政策に百八十度の転換をした。これは、信長にとって三河の松平氏と組むことは上洛に際して背後の心配がなくなる。▼■元康(家康)は、今川氏真(1538~1615)と断交し、三河平定に着手。 0990
3月2日 長尾景虎(上杉謙信)(1530~1578)は、関東諸将を厩橋城に集め出陣。 0992
3月3日 北条氏照(北条氏康の三男で氏政の弟)(1540~1590)は、武田信玄(1521~1573)に救援を請う。 0994
3月3日 「第一次小田原城包囲―3月3日~閏3月4日」、はじまる。▼長尾景虎(謙信)連合軍、小田原城包囲。 0997
閏3月4日 「第一次小田原城包囲―3月3日~閏3月4日」、終結。▼長尾景虎(上杉謙信)、小田原城包囲を解く。 1005
1561▼永禄4 閏3月16日 長尾景虎(上杉謙信)(1530~1578)、鎌倉に入り、上杉憲政(1523~1579)から関東管領を譲られ、鎌倉の鶴岡八幡宮社前で管領就任の報告式を行い、山内上杉家の家督を相続、名を「上杉政虎」と改めた。改名は6月10日ともいう。 1006
4月上旬 「梅坪城の戦い」。この頃、信長(1534~1582)、元康(後の家康)(1543~1616)の所領三河に侵攻。手始めに、三河の梅ヶ坪・伊保城を攻める。城を巡って織田-松平勢間で奪い合いが繰り返される。 1008
4月8日 信長との講和ができると、吉田城など今川氏の支城に収容されていた人質は殺されてしまう。松平元康(後の徳川家康)は、矛を逆にして、この日から今川氏に味方する三河の諸将に攻撃をし始める。 1011
4月11日 「牛久保城の戦い―家康の今川氏からの自立がはじまる」。 1012
9月10日 「第四次川中島の戦い~八幡原の戦い」。夜明けと共に戦いが始まる。▼■一般に「川中島の戦い」というとこの戦いをさし、頼山陽の「鞭聲粛々」の詩を生み出した戦国時代の代表的な合戦として有名。 1046
9月10日 「信玄、信州を平定」。この第四次川中島の戦い以後、上杉政虎(謙信)は信州に侵攻しなくなった。合わせて24年にして、武田信玄は、ようやく信州を平定。 1047
9月13日 「藤波畷戦い―家康、西三河を平定」。 1050
10月5日 北条氏康、武田信玄に応じ、武蔵松山城を攻める。近衛前久、上杉政虎(謙信)に松山城の危急を告げ、関東出陣を促す。 1053
10月30日 武田信玄、京都清水寺成就院に対し、川中島戦勝報謝として信州伊那郡面木郷を寄進、併せて万疋の地を寄進することを約する。 1054
11月- 「謙信の第三次関東遠征」。▼上杉政虎(謙信)、武蔵松山城救援のため関東に出陣。 1056
12月- この月、上杉政虎(謙信)(1530~1578)、将軍足利義輝より一字を賜り、「輝虎」を名乗る。 1066
1562▼永禄5 1月15日 「清洲同盟」。織田信長(1534~1582)と松平次郎三郎元康(後の徳川家康)(1543~1616)が同盟。▼■この同盟関係は、天正10年(1582)の「本能寺の変」まで守り続けられる。同盟の締結により信長は東方の憂いから解放され、また家康にとっては駿河の今川氏から独立する画期となる。 1068
6月- この月、武田信玄の四男勝頼(1546~1582)、諏訪頼重の家跡を継ぎ、諏訪四郎勝頼となり、高遠城主に就任する。 1094
11月24日 「謙信の第四次関東遠征」。▼上杉輝虎(謙信)は、武蔵国松山城救援のために急ぎ関東に出陣する。 1118
1563▼永禄6 2月4日 「武蔵松山城の戦い」。武田信玄(1521~1573)、北条氏康(1515~1571)と協力して、上杉憲勝の武蔵松山城を攻め、信濃・甲斐の金掘衆で掘り崩しを計る。この日、ついに落城する。▼■上杉輝虎(謙信)(1530~1578)は松山城の救援間に合わず、武田・北条軍牽制のため利根川端に陣を張る。 1127
7月6日 今川家と断交した松平二郎三郎元康(1543~1616)、今川義元の偏諱を改め、「家康」と改名。 1139
9月5日 三河一向一揆(永禄6年(1563)9月5日~永禄7年(1564)2月28日)、起こる。 1144
1563▼永禄6 10月14日 「吾妻以西はほぼ武田信玄の支配下になる」。▼真田幸隆(幸綱)(信繁の祖父)(1513~1574)ら上野吾妻郡の諸士、羽尾氏を支援した上杉方の斎藤憲広の居城・岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町原町平沢)を攻め落とす。 1153
11月- 「謙信の第五次関東遠征」。▼上杉輝虎(謙信)、里見氏救援のため関東に出陣。 1156
1564▼永禄7 2月28日 三河一向一揆(永禄6年(1563)9月5日~永禄7年(1564)2月28日)、鎮定。▼松平家康(後の徳川家康)、一向一揆と和議を結び、結果、旧守護家吉良氏の勢力を駆逐、今川家に心寄せて両端を持していた松平一門のあるものも含む豪族を一掃できた。 1169
5月- 「松平家康、東三河侵攻」。▼松平家康5千、吉田城を攻める。 1186
7月15日 「武田信玄嫡男・義信、謀反」。▼武田義信(1538~1567)・飫富虎昌(1504?~1565)・曽根周防らが、信玄暗殺を密談。 1196
7月23日 北条氏康(1515~1571)、岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区)を奪う。北条氏の武蔵支配が決定的になる。 1197
8月24日 「第五次川中島の戦い~塩崎の対陣」。▼武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、2ヶ月に渡り対陣するも、にらみ合いで終わる。上杉輝虎(謙信)は飯山城に兵を退く。武田信玄は、髻山城に兵を上げ、上杉軍に備える。 1204
10月1日 「第五次川中島の戦い~塩崎の対陣」終結。▼▼上杉輝虎(謙信)、飯山城(長野県飯山市飯山)を越後の防御・信濃計略の前進基地として改修し、普請を終えて春日山城に帰る。▼■以降、川中島地方は武田信玄の支配下となる。 1212
10月24日 「謙信の第六次関東遠征」。▼上杉輝虎(謙信)、再び佐野昌綱攻略のため、上野国沼田城に着陣。 1216
1565▼永禄8 3月19日 「吉田城の戦い―家康、全三河を統一」。▼松平家康(1543~1616)、吉田城の小原鎮実(大原肥前守資良)(?~1570)に勝利。これにより田原や御油も落城し、牧野氏などの諸氏も降参したため、今川氏の三河拠点は消失する。 1237
3月27日 本願寺顕如光佐(1543~1592)、武田信玄(1521~1573)と音信を結び、対上杉輝虎(謙信)の盟約を結ぶ。本願寺と武田信玄、軍事同盟を結ぶ。▼■顕如と信玄の間を斡旋したのは相模国の北条氏康である。 1240
5月19日 「永禄の変―将軍足利義輝、討死」。(幕府三度中絶)。 1243
7月- 「武田義信謀叛事件」。▼武田信玄、親今川派の息子義信(1538~1567)によるクーデター未遂事件察知。時期は異説あり。 1254
9月9日 織田信長(1534~1582)、津田一安(織田忠寛)を武田家に使者として派遣、武田家との縁談を持ちかける。▼▼武田信玄、織田信長の養女(遠山夫人、龍勝院)(1553?~1567)を勝頼(1546~1582)の妻とすることを了承し、武田、織田両家の同盟締結を決める。▼■織田・武田の相互不干渉を約束した。 1258
1565▼永禄8 10月15日 「武田義信謀叛事件―武田太郎義信、廃嫡」。▼嫡男・義信、父信玄暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉され、今川義元の娘嶺松院と強制的離縁の上、後継者としての地位を失う。 1262
11月13日 「甲尾同盟」。▼武田信玄の嫡子・諏訪(武田)勝頼と、信長養女(遠山夫人)の婚儀が行われる。 1266
11月- 「謙信の第七次関東遠征」。▼この月、上杉輝虎(謙信)、北条氏康・武田信玄が関東の上杉方諸城に攻撃をかけ始めたため、下野佐野に出陣。そのまま越年する。 1269
― この年、武藤喜兵衛(真田昌幸)(1547~1611)の長女於国(村松殿)(1565~1630)、武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎で生まれる。 1274
1566▼永禄9 1月13日 武田信玄、比叡山より大僧正に任ぜられる。 1276
3月23日 「臼井城の戦い」。下総千葉氏の第27代当主・千葉胤富(1527~1579)、上杉輝虎(謙信)に勝利。▼■上杉輝虎は里見氏との連携に失敗し、房総から完全撤退する。 1285
3月- この月という説がある。信幸(のちの信之)(1566~1658)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる。幼名源三郎。 1286
9月29日 武田信玄(1521~1573)は、念願であった、西上野最大の城塞で上杉方、長野業盛の上野国箕輪城を陥落させる。 1304
10月11日 「謙信の第八次関東遠征」。上杉輝虎(謙信)(1530~1578)、関東に出陣。 1305
12月9日 東三河・北部の奥三河を平定、三河国を統一した、松平家康(後の徳川家康)が、三河守を拝領。 1308
12月29日 松平家康(1543~1616)、勅許を得て徳川氏に改姓。 1312
1567▼永禄10 ― この年、真田信繁(幸村)(1567?~1615)、生まれる。幼名源二郎。▼甲斐国の武田信玄の家臣で、後の信濃国上田城主・真田昌幸の次男として生まれ、甲斐国古府中で過ごす。母は正室山手殿、兄に真田信幸(のちの信之)。父昌幸(1547~1611)は当時、武田信玄の母方の大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛昌幸を名乗っていた。 1313
3月- この月、真田幸隆(幸綱)、計略により上野白井城(群馬県渋川市白井)を攻略する。武田信玄は、真田一徳斎幸隆(1513~1574)・信綱(1537~1575)父子に、箕輪城在城を指示する。箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)が前線基地となる。 1317
3月15日 佐竹義重(1547〜1612)、上杉輝虎(謙信)に離反し、信玄と通ずる。 1319
8月7日 「武田義信謀叛事件」により、信玄の領国に重大事があり、武田家所属の甲斐・信濃・上野の将士らが信州下之郷諏訪神社前で改めて信玄に忠誠を誓う起請文を書く。翌日もまた将士の起請あり。237人という。 1331
10月10日 「東大寺大仏殿炎上」。▼松永久秀が、東大寺大仏殿に布陣する三好三人衆を夜襲し、これを破る。 1335
10月19日 「武田義信謀叛事件―義信自刃」。▼永禄8年(1565)9月頃から、父・武田信玄(1521~1573)によって幽閉されていた嫡男・義信(1538~1567)、憂悶のうちに自刃。東光寺に葬る。今川氏真(1538~1615)は、信玄と絶交し上杉輝虎(謙信)(1530~1578)と結ぶことになる。 1336
1567▼永禄10 10月- 「謙信の第九次関東遠征」。上杉輝虎(謙信)、関東に出陣。 1337
11月19日 武田義信夫人(嶺松院)(?~1612)、娘・園光院と共に、北条氏の仲介で駿河へ帰り同盟決裂。甲駿相の盟約はついに完全に破れる。今川氏真は、上杉輝虎(謙信)と交誼を図リ、松平家康(後の徳川家康)も、謙信と交誼を交わす。 1344
11月21日 遠山夫人(勝頼室)の死を受けた織田信長(1534~1582)、織田掃部助(忠寛)(?~1577)を使者として、嫡男奇妙丸(信忠)(11歳)(1555/1557~1582)と武田信玄の五女・松姫(7歳)(1561~1616)との婚儀の話を持ち込み、信玄はこれを受諾する。 1345
12月21日 「今川氏真が父義元の代からの縁故を頼って、上杉輝虎と秘密交渉を開始」。 1348
1568▼永禄11 2月- この月、織田軍により「北伊勢平定」。 1354
2月16日 「甲三同盟」。▼武田(穴山)信君、徳川家臣酒井忠次に、武田―徳川同盟についての書状を送る。▼■今川氏の領土を狙う武田信玄(1521~1573)、徳川家康(1543~1616)と「駿遠分割の密約」を結ぶ。 1356
5月- 「越駿同盟」。▼今川氏真(1538~1615)、上杉輝虎(謙信)(1530~1578)と同盟を締結。 1370
9月26日 織田信長、足利義昭を奉じて入京(二回目)、東寺に陣取る。▼■有力な戦国大名は、新しい歴史のはじまったことを見て、入京して信長を倒し、これに替わることを目標に激しく動き出す。 1388
10月18日 信長(1534~1582)、朝廷から将軍宣下を受けて、足利義昭(1537~1597)を第15代将軍に就任させる。義昭、念願の征夷将軍・参議左近衛中将に任じ、従四位下に叙され、足利幕府を再興。 1391
10月20日 「謙信の第十次関東遠征」。▼上杉輝虎(謙信)、本庄城(村上城)攻めのため、春日山城を発する。 1392
11月- 今川氏、武田氏との国境を封鎖。 1396
11月25日 「越駿同盟」。▼今川氏重臣の三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝が、上杉氏重臣の直江景綱・柿崎景家に、信濃出兵を望み、和親の誓約をする。 1399
12月6日 「甲相駿三国同盟が破綻。武田氏の第一次駿河侵攻」。今川氏との同盟を破棄した武田信玄(1521~1573)は、この日、甲府を発して、2万5千の兵で駿河への侵攻を開始、駿河国宍原着。進攻により甲相駿三国同盟は破綻。▼■これに激怒した北条氏康(1515~1571)は、武田と手を切り、氏政(1538~1590)と黄梅院(信玄長女)(1543~1569)を離婚させ、甲斐に送り返す。 1402
12月12日 「徳川家康軍、今川領・遠江侵攻」。 1407
12月12日 武田信玄、山県三郎兵衛昌景を家康の許に遣わし、大井川を境として、信玄は大井川東・駿河を取り、徳川家康は大井川西・遠州を取るべき事を申し入れる。1月には、「大井川協定」が結ばれる。 1408
12月12日 「第一次薩埵峠の戦い」。▼武田勢先鋒の馬場信春(信房)隊が、由比正純の川入城を攻め陥落させる。この緒戦の勝利で勢いに乗った武田勢が薩捶峠を攻め上ると、大きな衝突もないままに今川勢が崩れて敗走を始めてしまったのである。▼■今川氏真本陣、僅か、7、80騎で駿府へ逃げる。 1411
1568▼永禄11 12月13日 「武田軍、今川駿府館占領」。▼武田信玄、山県昌景と馬場信春を先鋒に駿府侵攻。愛宕山砦・八幡山砦・賎機山城が落城。浅間神社・臨済寺放火。12年に渡る武田氏の駿河占領が始まる。 1421
12月27日 「掛川城攻防戦―永禄11年(1568)12月27日~永禄12年(1569)5月15日」。▼徳川軍によって掛川城が包囲される。 1457
1569▼永禄12 1月5日 「本國寺の変」。三好三人衆、足利義昭の御座所である京都本國寺を攻撃。 1466
1月26日 「第二次薩埵峠の戦い」。▼武田先陣跡部大炊助勝資・2陣内藤修理亮(昌豊、昌秀)は、興津川を越え、北条先鋒・松田尾張守憲秀と薩埵峠で戦い、負けて退く。▼■北条氏政軍、薩埵山八幡平に陣し信玄1万8千と興津川挟んで対峙。 1483
1月- 「気賀一揆」の蜂起。▼堀江城の大沢基胤(1526~1605)は、今川氏真に従い家康の遠江進入に抵抗した。この正月、基胤らは、宇布見の砦を攻撃し敵船を奪う。 1487
2月16日 武田信玄、徳川家康に、信玄が家康に対する疑心は無いものの家康に対し誓詞の提出を求め、家康がそれに応じた事に対し、信玄も血判を提出する事を約し、和睦成立する。「第一次甲相同盟」は破綻となる。 1499
3月23日 上杉輝虎(謙信)の南下を恐れた、武田信玄は、織田信長との交渉のために京都武田屋敷の謀臣・市川十郎右衛門尉に命じ信長に働きかけさせ、その斡旋により甲越和睦を実現、信玄自身は、北条氏に当たり得るよう画策する。 1521
4月24日 「信玄の第一次駿河侵攻、終結」。▼武田信玄、駿河薩埵山に北条氏康と戦って敗れ、ついに駿河を放棄して興津川沿いに甲斐に帰還する。 1535
5月9日 「掛川城攻防戦」。これ以上戦いを長引かせては武田勢に蚕食されてしまうと判断した家康は、和睦を協議することにした。この協議には今川氏と同盟関係にあった北条氏政も参画し、この日、和睦が成立する。北条氏規(氏康の五男)が取次をつとめた「相三同盟」が成立。 1541
5月15日 「掛川城攻防戦終結―永禄11年(1568)12月27日~永禄12年(1569)5月15日―掛川城開城」。今川氏真、掛塚湊(磐田市掛塚)から出港。▼■かつては駿河・遠江・三河を領した守護・今川氏は、実質的に滅亡。 1543
― 「家康、遠江平定」。この頃、徳川家康、高天神城(静岡県掛川市下土方)を占領、今川方の属将であった小笠原信興(長忠)をそのまま城将として置く。 1547
5月23日 今川氏真(1538~1615)は、北条領の伊豆国戸倉城(静岡県駿東郡清水町徳倉)へ落ち着き、北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲ることを約す。 1548
6月9日 「越相同盟」。上杉輝虎(謙信)(1530~1578)と北条氏康(1515~1571)の間でいわゆる「越相同盟」が結ばれる。北条氏康は、武田と敵対関係にあった上杉家と同盟を結ぶことで、武田の動きを牽制しようと考えた。謙信も、関東への影響力を強められると考え、北条家からの申し入れを受け入れた。 1559
6月16日 「信玄の第二次駿河侵攻」。▼武田信玄、甲斐・信濃の兵を率いて、駿河古沢迫る。この日、北条氏康・氏政父子、上杉輝虎(謙信)に、信濃出兵を求む。 1560
10月6日 「三増峠の戦い」。 1591
1569▼永禄12 11月28日 「信玄の第三次駿河侵攻」。▼信玄、駿河の北条諸城(深沢城・新庄城・湯沢城・足柄城・山中城など)を攻める。 1606
12月10日 武田信玄(1521~1573)、織田信長(1534~1582)に、上杉輝虎(謙信)(1530~1578)の信濃出兵を中止させるよう依頼。 1613
12月14日 「駿府館開城」。▼武田信玄(1521~1573)、臨斎寺鉄山宗純(1532~1617)に、今川氏真の家臣・岡部次郎右衛門正綱らを説得させ投降させる。 1617
1570▼永禄13 1月4日 武田信玄、駿河深沢城を陥とす。▼■駿河における戦況は武田方に有利となった。 1625
2月18日 北条氏康・同氏政父子、起請文を上杉輝虎(謙信)に送りて盟約を誓い、且つ兵を信濃または西上野に出して、武田信玄の勢を牽制することを求める。▼■「越相同盟」。北条・上杉の和睦条件が整い、この日以降、誓詞・条書が交換される。 1633
3月- この頃、富田大中寺において上杉輝虎(謙信)と北条氏康が対面し、氏康はかねての約束通り、17歳の三郎(のちの上杉景虎)(七男氏秀・初め信玄の養子として武里二郎氏秀といった)を質として差出すこととする。▼■謙信、これを養子として迎える。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束されるという(越相同盟)。 1636
4月16日 「信玄の第四次駿河侵攻」。▼武田信玄、甲府から駿河へ出陣。 1649
1570▼元亀1 6月- この月、徳川家康(1543~1616)、岡崎城を嫡男・竹千代(信康)(1559~1579)に譲り、自身は曳馬城(引馬城、引間城、後の浜松城)に移る。その際に、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた。信康は8月に元服。▼■家康は、天正14年(1586)12月駿河府中に移るまでの17年間、浜松に在城した。29歳から45歳、壮年期から中年期にわたる期である。 1663
6月28日 「姉川の合戦」。▼織田・徳川同盟軍、姉川(滋賀県長浜市野村町)で浅井・朝倉連合軍を敗る。 1670
7月19日 上杉氏、武田方の使僧を成敗して武田氏と断交。 1673
9月12日 「石山合戦―元亀1年(1570)9月12日~天正8年(1580)8月2日」、はじまる。▼本願寺顕如光佐、三好三人衆とはかり、夜半、石山本願寺挙兵、摂津国福島の織田軍を攻撃。以後、11年に及ぶ石山合戦が始まる。 1694
9月16日 「志賀の陣」はじまる。▼本願寺の決起から四日後,浅井・朝倉軍(約3万)が坂本に布陣。 1696
10月上旬 武田信玄の将・山県昌景、藤枝・遠江榛原郡の小山まで乱取し、遠江をうかがう。遠江の侵略を恐れた家康は信長の扱いで、大井川をもって武田と徳川領の境目を糺す。 1699
10月8日 「越三同盟」。武田信玄(1521~1573)と和睦関係にあった徳川家康(1543~1616)は、誓書を上杉輝虎(謙信)(1530~1578)に送って、信玄と絶縁する事を誓い、織田信長と謙信との両者の仲を取り持つことを約する。 1701
10月- 「謙信の第十二次関東遠征」。上杉輝虎(謙信)、上野武田領に出陣。 1702
12月上旬 「信玄の第五次駿河侵攻」。武田信玄、駿河侵入。 1707
1570▼元亀1 12月13日 上杉輝虎(謙信)(1530~1578)、春日山城看経所に越中平定の祈願文を納める。この時から「謙信」を名乗る。 1708
12月13日 「志賀の陣」の終息。治安混乱の中、勅を奉じた関白二条晴良の仲介で、織田信長(1534~1582)と朝倉義景(1533~1573)、浅井長政(1545~1573)が講和。 1709
12月- この月、武田勝頼(1546~1582)、高遠城から信玄の帷幕に入る。勝頼、跡取の地位を確保。 1713
1571▼元亀2 1月16日 「深沢城、開城」。北条綱成(1515~1587)は、武田信玄開城勧告を蹴って抵抗したが、武田軍は「金堀衆」を投入して城を掘り崩しにかかったため、綱成は援軍を待たずに開城し相模玉縄城へ退却。深沢城は再び武田家の支配下となった。 1720
2月24日 「信玄の第一次三遠侵攻」。▼武田信玄、大井川を渡って遠江に入り、遠江攻略の橋頭堡として吉田町に、能満寺城を普請して、小山城を築城。 1723
8月1日 上杉謙信、徳川家康の提携申し入れを承諾し、誓書を交換する。
9月12日 「信長の比叡山焼き打ち」。▼織田信長(1534~1582)が天台宗比叡山延暦寺の堂塔を悉く焼く。 1745
10月3日 隠居していた3代当主北条氏康(1515~1571)、小田原城において没。享年57。氏政(1538~1590)が嗣ぐ。▼■氏政、父の遺言「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」により、上杉謙信との同盟を断ち、信玄と結ぶことを志向。信玄にしても西上作戦の展開で、西上野での北条氏との攻争が足かせとなっていた。 1751
11月- 「謙信の第十三次関東遠征」。▼この月、上杉謙信は再び関東に出陣、上野総社に布陣し、武田軍と対峙する。 1753
12月27日 「甲相同盟を復活」。北条氏政は、実効が乏しい、越後上杉との越相同盟を破棄し、改めて武田信玄と誓紙を交換、甲斐武田との「甲相同盟(第二次)」を復活させる。武田信玄は、上杉謙信の動きを封じるべく、謙信と同盟関係にあった北条と和睦。 1759
1572▼元亀3 1月15日 北条氏政、上杉謙信との同盟を破棄し、武田信玄と結ぶ。
7月- 武田信玄、天台宗の極官である権大僧正に任ぜられる。 1794
9月- この月、浅井長政(1545~1573)・朝倉義景(1533~1573)が、武田信玄(1521~1573)と同盟を結ぶ。 1811
10月1日 武田信玄・勝頼と連名にて、越中の一向一揆の主領勝興寺宛に手紙を出し、西上作戦の計画に当たり、上杉謙信の腹背を衝かせる計画を洩らす。文中とくに信玄の病気が記録されている。年は異説あり。 1816
10月3日 「信玄は「西上作戦」を開始」。▼武田信玄・勝頼・上洛の兵、甲斐国府中を出発。将軍足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応える形で信玄が、北条氏政(1538~1590)からの援軍2千を含めた2万7千の軍勢を率い甲斐躑躅ヶ崎館を進発。 1820
10月10日 「信玄の第二次三遠侵攻」。▼武田信玄本隊、2万の大軍を率いて伊那谷から遠江との国境にある青崩峠に侵攻。天野景貫の犬居城に入る。 1821
10月16日 「二俣城の戦い―10月16日~12月19日」。武田勝頼、二俣城を包囲。 1826
1572▼元亀3 10月- 「第一次岩村城合戦」。▼織田軍、武田氏と織田氏に両属していた美濃国岩村城(岐阜県恵那市岩村町)を攻略。 1834
11月14日 「第二次岩村城合戦」。▼武田信玄の重臣・秋山信友(虎繁)(1527~1575)に攻められ、籠城していたおつやの方が岩村城を開城。(異説あり)。 1839
11月20日 「濃越同盟」。▼織田信長、上杉謙信へ、全5ヶ条にわたり信長と信玄の敵対とその状況を通知。信長、輝虎(謙信)の要請を入れ信玄と国交を断ち、信濃に攻め入るを約す。信長は謙信と同盟し、信玄を信濃に挾撃する策を計る。また、浅井・朝倉をはさみ撃ちにせんとする。 1846
12月3日 小谷城の応援の朝倉義景、信長を追撃しようとせず、近江国より撤退、越前に帰国する。信玄の西上による信長包囲網の一角が崩れる。 1849
12月19日 「二俣城の戦い―10月16日~12月19日」、終結。▼水の手を断たれて1ヶ月余、二俣城は、ついに降伏・開城。城将・中根正照らは浜松城へ退去した。この後、信玄本隊が二俣城に入った。▼■遠江の地侍で信玄に味方するものが多くなる。 1852
12月22日 「三方ヶ原の戦い」。▼遠江国三方ヶ原に於いて武田信玄2万と織田・徳川家康連合軍1万が激突。信玄は信濃。甲斐の兵を率い、ほぼ2万5千を迎え撃った。夜、徳川・織田連合軍は大敗し、家康、浜松城へ命からがら逃げ帰る。 1857
12月23日 信玄が三方ヶ原の戦いの首実検を行う。その後、三方原の台地を下り、刑部に着陣。▼■信玄は、ここで進軍を止め、越年する。 1860
12月28日 遠江三方ヶ原で勝利した武田信玄(1521~1573)、朝倉義景(1533~1573)の近江よりの撤兵を知り、信長討滅の機会を逸したと責める。 1863
1573▼元亀4 1月11日 「武田信玄最後の戦い―野田城の戦い(1月11日~2月15日)」。 1872
2月15日 「武田信玄最後の戦い―野田城の戦い(1月11日~2月15日)」終結。▼武田信玄、ようやく、三河野田城を攻略する。日は異説あり。▼■この野田城落城によって、三河での徳川家康の防衛線は壊滅した。 1878
3月9日 武田信玄、鳳来寺を出て甲斐へ向かう。▼■信玄は野田城を攻略したが、この頃から病状が悪化、長篠を経て鳳来寺に移り、しばらく療養に専念していたが、一向に回復に向かわなかった。 1887
4月12日 武田信玄(甲斐及び信濃守護)(1521~1573)、信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)に於いて病没。享年53。死の床にて3年秘衷、領内の整備、戦力の充実などを遺言する。反信長同盟が事実上崩壊。勝頼が相続し、長坂長閑斎(虎房、光堅)・跡部勝資ら諏訪・高遠関係の家臣団が支えることになる。▼■天正10年(1582)武田氏が滅亡するまでの10年間、家康と勝頼との対決が続く。 1896

ISBN:9784897043746
出版社:ユニプラン
判型:A5
ページ数:208ページ
定価:1500円(本体)
発行年月日:2016年06月
発売日:2016年05月23日
国際分類コード【Thema(シーマ)】 1:WQY