「宝暦治水」工事の実体は、一体どのようなものだったのか。これまでの知見を踏まえて、工事内容・工法をめぐる幕府側役人と薩摩藩側との遣り取り、水流の変更にともなう地元民との確執、難儀する資材の調達や総工費三十八万両余の資金繰り、さらに疫病の流行と人員の補填などの悪条件が重なるなかでの工事完遂までの全体像を跡づけ、江戸時代における治水工事の評価を検証する。また、「平田家系図」「島津藩記録」等に記された内容から、総奉行平田靱負の最期を読み解き、靱負の墓に纏わる口碑や後代に流布する「靱負切腹説」の誤解を説く(第一部)。
明治三十三年(一九〇〇)四月二十二日、木曾三川分流成工式と宝暦治水之碑の建碑式が行われた。この宝暦治水犠牲者の慰霊と顕彰に到る経緯を、「治水雑誌」(明治二十三年(一八九〇)創刊)や、顕彰活動に奔走した西田喜兵衛(『濃尾勢三大川宝暦治水誌』明治四十年(一九〇七))等の文献に基づいてその動向を追う。付録資料として『木曾長良揖斐三大川薩摩普請実跡図』に描かれた風景画のなかに、西田の「義士顕彰」への個人的な心情と「宝暦治水」への認識を読み取る(第二部)。
宝暦治水碑建立後の「義士顕彰」運動を先導したともいえる岩田徳義の活動と著作(『宝暦治水工事薩摩義士殉節録』明治四十五年(一九一二))から、第一回薩摩義士顕彰講演会(同年)にはじまり、平田靱負に対する贈位(大正五年(一九一六))運動や演劇・浪曲などの普及活動をとおして「薩摩義士」が全国的に波及し、物語化されていく過程を捉える。付録資料に『薩摩義士之偉業』(大正九年(一九二〇)海津郡初版発行)の変遷を記す(第三部)。
平成二十一年(二〇〇九)、平田家に伝わる文書類等が新たに発見された。新出資料からは靱負の父正房以後明治・大正にいたる平田家一族の動静を知ることができる。これらの資料を紹介しつつ、「平田家系図」にみる改名・相続の手続きから一族の嫡流系譜を辿る。「平田家位牌帳」(翻刻)等は平田家の祭祀の歴史を物語る貴重な資料となっている(第四部)。
残された資料に基づいて整理した結果として、これまでいわれてきたことがらと異なる内容も多いかと思うのだが、本書がことがらの真実を見極め、顕彰活動を未来へつなぐための手がかりになればと思っている(あとがき)。