川中島の戦い―プロローグ
二一世紀の戦争
川中島古戦場史跡公園
川中島の合戦―虚と実―
歴史は「創られる」?
「古戦場」論
本書の課題
扱う時代の特徴
川中島の戦いをめぐる研究
二つの川中島
「川中島」とはどこか
武田晴信の捉えた「川中島」
長尾景虎の捉えた「川中島」
川中島の戦いは何度あったか?
田中義成による川中島の戦い二回説
渡邊世祐の川中島の戦い五回説
川中島の戦いをめぐる史料の限界と課題
ミクロからマクロへ
なぜこの地域で起こったか
信濃国「奥郡」
川中島の地政学的位置
北信濃と上杉氏
越後国にある信濃武士の所領
永正の乱と信濃「上郡」
越後における永正の乱と守護代長尾氏
信濃における永正の乱と長尾氏
長尾景虎の領域意識
武田氏の信濃侵攻と小笠原氏
信濃守護小笠原氏
小笠原氏の守護就任と春近領
その後の小笠原氏
武田晴信の府中侵攻
長時と信濃国衆の動向
武田晴信と小笠原憩庵
小笠原長時と室町幕府・同名
長時の逆襲
長尾景虎の出兵論理
信濃国衆の離反
治罰の綸旨へ
検証 天文二二・二四年の合戦
天文二二年の合戦
布施の戦い・八幡の戦い
長尾景虎動く
上野原とはどこか
尼巌城の攻略
その後の村上義清
天文二四年の合戦
武田晴信の更級郡進出
晴信 佐野山城へ向かう
綱島再興へ
清野氏の「日記」
二〇〇日の対陣
景虎の立場
和与の儀
晴信の立場
天文二四年合戦の意義
検証 弘治三年・永禄四年の合戦
弘治三年の合戦
武田晴信の弘治二年の宛行状
景虎出奔す
高梨政頼の小館退去
不慮の題目
高梨氏の反撃・景虎の復帰
なかなか出兵しない甲越両軍
両軍出兵へ
武田氏の山伏統制と情報伝達
「山本菅助」の口上
六月一六日・二三日発給文書
七月の葛山城をめぐる史料
永禄四年の合戦
室町幕府の停戦命令と双方の言い分
国分・国切
永禄二年「足利義輝御内書」と信濃
近衛前嗣の越後下向と景虎
近衛家の文事と政事
善光寺の移座と晴信の徳政興行
両属する信濃国衆
上杉政虎誕生
永禄四年閏三月「足利義輝御内書」をめぐって
政虎の帰国と信玄の出兵
一向宗と武田・後北条氏
永禄四年の大会戦へ
永禄四年九月の千句連歌と近衛家
『甲陽軍鑑』
上杉方の記録―上杉年譜―
宇佐美定祐の虚像
発給感状の比較
永禄四年の合戦が残したもの
描かれた川中島の戦い
その後の北信濃―エピローグ
関東情勢の変化
武田氏の地域支配の進展
上杉輝虎の願文
輝虎出陣
対陣六〇日
永禄七年停戦命令
永禄一〇年の戦いはあったのか
永禄一一年の対陣と宗教界
永禄一一年の一向宗動乱
足利義昭と甲相越三和
織田信長の上洛
川中島の戦いは信濃に何を残したか
あとがき
関連年表
参考文献