平泉澄自身が未公開とした資料は少なくない。本書はそれを、「小生すでに長逝した後には発表してよい」という氏の書翰を頼りに、翻刻・解説するものである。
第1論文から第3論文は、丙子の乱(2・26事件)に関係する記録である。
第1論文では、丙子の乱の翌日に上京する秩父宮を、何の必要があって平泉が群馬県の水上駅まで迎えに行ったのかという疑問に対し、氏の書翰と「孔雀記」の要約を資料として事実を明らかにする。
第2論文は、『孔雀記』の翻刻である。 『孔雀記』は『高松宮日記』にその名が記される、丙子の乱(2・26事件)の時の平泉の行動所見手記である。関係者のプライバシーに配慮して20〜30年後まで非公開とされてきたが、事件当時より76年を経て、ここに「史料」として初公開するものである。
第3論文では、丙子の乱後、近衛文麿は叛乱処刑者に対して恩赦の運動を行ったが、この背後には平泉がいたのではないか、という疑問に対して、平泉が近衛に出した昭和12年7月3日付け書翰を翻刻することで、平泉が叛乱軍に対して「大赦」を請願した真意を示す「史料」を提示する。
第4論文では、平泉自らノートに整理した『正学大綱』の講義(昭和29年夏、於千早存道館)を解説する。また『この道を行く』『寒林年譜』の史料的価値についても触れる。
第5論文は、大東亜戦争開戦前の平泉の心境を示す史料として書き残されていた最重要史料数点の翻刻・解説である。特に『似鐵記』に収められている3点の資料(「意見十條」「大命を拝して」「似鐵記」)と、それに関連して第二次近衛内閣発足時のラヂオ放送「大命を拝して」の背景について論述した。
第6論文は、近衛文麿へ提出した「意見十條」の翻刻と解説である。平泉の“国体と政治”の眼目を闡明された珍しい内容で、いわゆる“近衛内閣新体制”の基本的考え方を示す重要な記録である。
第7論文・第8論文は、直接に平泉史学とは関係ないが、その訓戒を70年師承してきた著者の歴史研究方法、国体観の一端を述べたものである。
第7論文では、日本の国体として、明治天皇の「宸翰」から、「君臣一体」の姿を明らかにし、大原則として「天皇親政」でなければならず、日本の国そのものが“天皇の親政によって成立”し、“保持”され、“発展してきた”ということを、歴史の事実として論述する。
第8論文は、川口雅昭「吉田松陰の天皇観」(『藝林』第58巻第1号、平成21年4月)批判である。川口論文の論点を3つにまとめ、それぞれについて詳細に検討し、近代史学者の史料批判の甘さを諭す。
第9論文は、平泉の高弟名越時正『及門遺戒』の翻刻・解説である。平泉学派の師弟関係を実証するために用意した。
数々の誤解を受けてきた平泉澄の真の姿を明らかにする、現代史家必携の1冊。