日中激突のシナリオは友邦国ドイツが書いた
とてもリアルな軍人たちの石像群が愛知県知多半島の中之院にある。今にも動き出しそうな兵士たちの表情は一つ一つ違う。石像には位と名前と没年月日が刻印され、よく見ると支那事変早々の第二次上海事変の戦死者であることがわかる。
南京攻略戦の原因となった日中の死闘、上海戦についてほとんどの日本人は忘れ去ってしまった。1937年8月、中国軍は突然、国際条約を破り、日本の租界に襲いかかった。ここから3ヶ月に亘って闘われた上海戦は、日本軍が旅順要塞戦に匹敵する4万人以上の戦死傷者を出した史上まれに見る大激戦だったのだ。カバー写真の兵士像は、遺族が作らせたこの時の戦死者たちである。
そして、近代的トーチカを構築して中国軍を精強に訓練し、日本軍を上海に引き込む戦略を立て、現地で作戦指導をしていたのは、なんと日独防共協定で味方であるはずのドイツ軍事顧問団だったのだ! なぜ彼らは日中激突を画策し、中国軍のために働いていたのか。
邦人救出のため、初めて戦地に赴いた日本の兵士たちは実にけなげに戦い倒れていった。なぜ日本人はこの「民族の一大叙事詩」を忘れ去ってしまったのか。
上海戦の実相と歴史ミステリーを追う。