本書は六部からなり、第一部は「詩と哲学、そして宗教」、第二部は「仏教における思惟と真如」、第三部は「現代のキリスト教における世俗化の問題」、そして第四部は「東アジア圏の文化交渉の軌跡」、第五部は「道元禅に寄せて」、最後の第六部は「拾遺ー折々の随想から」となっている。
第一部第一章では、日本の思想文化の根底に〈時の推移〉に寄せる日本人の鋭敏な感受性と、日本古来の宗教土壌として、生きとし生けるもの同士の〈いのちの繋がり〉、〈幽冥なるもの〉への感覚があることを明示した。第二章は、詩と哲学的思索との関連性について論じたもので、両者には語りえざる〈超越的なもの〉に対する志向性が伏在していることを突き止めた論稿である。
第二部第一章は、正中二年(一三二五)の正月、宮中清涼殿で行われた宗教論争を扱ったもので、旧仏教を代表する叡山の玄恵法印と、「教外別伝・不立文字」を標榜する禅宗側の大燈国師の対論を扱った。第二章は、インド・ヨーロッパ語に特有の再帰動詞の用法からゴータマ・シッダールタの思惟の構造を読み解き、彼の瞑想法が頓悟的直観を重んずる中国的発想とは異なる点を明示した。第三章では、西田幾多郎が踏まえる禅理解が、馬祖や臨済に代表される洪州系の什麼(しも)禅ではなく、神会・宗密・洞山が標榜する「覚知」を重んずる頓悟禅であることを明らかにした。第四章では、日本天台宗における本覚法門と始覚法門との相違と、両者の相互批判が誤解に基づく見方であることを指摘し、「真如随縁」の存在論的構造を哲学的に論及したものである。第五章は、鈴木大拙が説く「即非の論理」には「般若智」自身がもつ「即非」と自然的世界の「即非」の二側面があることを明示した。
第三部第一章は、旧約聖書の『出エジプト記』第三章第一四節にある「我は有りて在る者なり」という神名啓示を取り上げ、それをギリシア的・ロゴス的な意味で捉える仕方を批判してヘブライ語として理解されるべきことを説いた有賀鐵太郎と宮本久雄の説を取り上げ、両者の相違を紹介しつつ、同時に二人に欠けているロゴス的理解の現代における有意性を論じ、その視点から二〇世紀の神学者、ボンヘッファーの神学の現代的意義を探ったものである。第二章は、神が不在となり世俗化した現代におけるキリスト教のありかたをケノーシスの問題を踏まえながら、再度ボンヘッファー神学の重要性を論じたものである。
第四部第一章、第二章では、中国学の泰斗、内藤湖南を取り上げ、その学問には宋学の「格物致知」の精神があり、更に彼の歴史観が弁証法を踏まえたものであることを指摘した。第三章は東アジア圏の「もの」に対する捉え方の特質を論じ、第四章は、近世日本における古典籍理解、とくに伊藤仁斎・荻生徂徠・本居宣長・富永仲基をめぐって、ドイツ解釈学の立場と関連させながら、日本における解釈学の特異性を明示したものである。