岩波現代文庫 文芸349
増補 もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために
著:加藤 典洋
内容紹介
幕末、戦前、そして現在。3度訪れるナショナリズムの正体に、150年の時をへて我々は向き合わねばならない。その起源が幕末の尊皇攘夷思想である――。『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。』「一八六八年と一九四五」を収録、批評家加藤典洋による晩年の思索の増補決定版。(解説・野口良平)
目次
「複雑さを厭わずに考える」こと――序に代えて
Ⅰ 二一世紀日本の歴史感覚
もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために――丸山眞男と戦後の終わり
絶望のとき?
丸山眞男――戦後民主主義の創作者
手がかりとしての反時代性
福沢、丸山、大江――忠誠と反逆のつながり
福沢、丸山、山本――なぜ尊皇攘夷思想か
尊皇攘夷思想と皇国思想
大対立、中対立、小対立
終わりに
三〇〇年のものさし――二一世紀の日本に必要な「歴史感覚」とは何か
はじめに
明治一〇〇年から明治一五〇年へ
現状――「後退国」
アジアのなかでの特異さ
「戦後か明治か」と「戦後も明治も」
戦後の「むなしさ」
明治の「浅さ」
「なかったことにされた」ものの再帰――一八五〇年代と一九三〇年代と二〇一〇年代
尊皇攘夷思想とは何か
一八六八年の分断線
三〇〇年のものさし――尊皇攘夷と現代世界
最後に――丸山眞男の幻像
Ⅱ どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。
どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。――幕末・戦後・現在
はじめに――演題について
1 「犬も歩けば、棒にあたる」ということ
2 間違う思考は、間違いか――吉本隆明さんとのやりとり
3 「内在」から「関係」への転轍――『日本人の自画像』
4 現代世界と尊皇攘夷の「変態力」
5 幕末の攘夷思想と昭和前期の皇国思想
6 吉本隆明の一九四五年
7 護憲論の二階建て構造
8 壁にぶつかる護憲論
9 憲法九条から日米安保へ
Ⅲ スロー・ラーナーの呼吸法
ヒト、人に会う――鶴見俊輔と私
できごと
鶴見俊輔、一九七九~一九八〇、モントリオール
エピソード――道順、受講生たち、話の終え方、話し方
『北米体験再考』、『私が外人だったころ』
三〇センチのものさし
うさんくさいということを、おもしろがる
人との出会いとはどういう経験か――一人が、一人に出会える
高さと深さ
何もいえない、という回答
犬も歩けば棒にあたる
書くことと生きること
書くこととは何か
ゆっくりやること
「微力」について――水俣病と私
微力ということ
私にとっての水俣病
言葉とささやき
『アメリカの影』
佐藤真監督の『阿賀に生きる』
ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」
アイリーン・スミスさんの判断
石牟礼道子さんの『苦海浄土』
Ⅳ 「破れ目」のなかで
矛盾と明るさ――文学、このわけのわからないもの
はじめに
文学とは何か――お猿の電車について
文学の力とは何か――ホッブズ、ルソーからドストエフスキーへ
文学、このわけのわからないもの――『何をなすべきか』vs『地下室の手記』
文学の答え――「大審問官」の章
終わりに
戦争体験と「破れ目」――ヤスパースと日本の平和思想のあいだ
はじめに
なぜここにいるのか
限界状況と敗戦
ヤスパースと日本の平和思想
生への決意性と生の偶有性
『原爆と人間の将来』における「精神的転換」
形而上的な罪と「破れ目」
ゾーエーと抵抗――何が終わらず
何が始まらないか
死の不可能性
「ないこと」があること
「(無限性のなかに)有限がある」と「(有限性のなかに)無限がある」
しないことができること、することもしないこともできること
「称名」と応答――素人の感想
ヤスパースから法然へ
三つの転回
「第一八願」と可誤性
「イエスの血は決して私を見捨てたことはない」
Ⅴ 明治一五〇年の先へ
上野の想像力
八月の二人の天皇
明治一五〇年と「教育勅語」
Ⅵ 一八六八年と一九四五年
一八六八年と一九四五年――福沢諭吉の「四年間の沈黙」
はじめに――再来・反復・忘却
1 思考枠組と仮定の問い
2 幕末人、福沢諭吉
3 単線的と重層性
4 「四年間の沈黙」
5 反省の意味
6 「開鎖など云ふ主義の沙汰」
7 丸山眞男における幕末と明治
8 福沢と丸山――一つの岐路
9 普遍と「公」――福沢、中岡、吉野
終わりに――置き去りにされたもの
あとがき――少し長めの
解説それでも犀のように歩むために………野口良平
初出一覧
ISBN:9784006023492
。出版社:岩波書店
。ページ数:542ページ
。定価:1780円(本体)
。発行年月日:2023年02月
。発売日:2023年02月17日
。国際分類コード【Thema(シーマ)】 1:JB。